悲しいひまわり
七月も終わりに近づいた、うだるような午後のことだった。
この畑には必ず花が咲いている。マリーゴールド、コスモス、バジルの小さな白い花——野菜の畝と畝のあいだに、おばあさんは毎年欠かさず花を植えた。
「花があれば、虫たちが来てくれるからね」とおばあさんはよく言った。「農薬なんか使わんでも、みんなで助け合えばうまいことなるんよ」
マリーゴールドの橙色がミツバチを呼び、ミツバチが来れば花に実がなる。カマキリが葉陰でじっと待ち、害虫から野菜を守る。ミミズが土を耕し、カエルが虫を追いかける。それぞれがそれぞれの役割を持ちながら、この畑はひとつの命のかたちを作っていた。七十五歳になった今も、おばあさんはそのことを誰よりもよく知っていた。
夏になるとひまわりを植える。雑草を刈り取ったあとの場所に種をまくのが、おばあさんのやり方だった。「雑草を刈ったあと、何を植えるの?」と聞かれると、いつも迷わず答えた。「ひまわり」と。
その年も、畑の奥にひまわりが育った。仲間たちは畝に沿って肩を寄せ合うように並んで咲いている。夏の日差しを思い切り浴びて、風が来るたびにいっせいに揺れる。まるで笑い声が聞こえてきそうだった。
でもその子だけは、入り口のそばにぽつんと立っていた。
茎はほかの子より少し太くて、背丈は低い。でも花だけはどこよりも大きく開いている。種が雨に流されたのか、風に運ばれたのか——それはわからない。ただ、気がついたらそこにいたのだ。仲間たちの笑い声は、きっとここまでは届かない。
「あなた、聞こえてる? おーい」
おばあさんが声をかけると、ひまわりは少しだけ頭を揺らした。風のせいかもしれない。でもおばあさんには、聞こえているよと言っているように思えた。それからというもの、毎朝畑に出るたびに、おばあさんはまずこの子に声をかけるようになった。
「おはよう。今日も暑いねえ。水、もらったかい」
ひまわりは何も言わない。でもおばあさんには、その表情から気持ちが伝わってくるような気がしていた。その日も花びらの縁に、ほんの少し影があった。みんなの声が聞こえなくて、少し心細いのかもしれない。
八月に入って最初の週、熱波がやってきた。
朝から気温が上がり、午後には空がまるで白く焼けるようだった。おばあさんはいつもどおり畑に出て、水をやり、草を抜き、ひまわりに声をかけた。でも体の芯がじわじわと熱くなっていくのがわかった。
「少し休もうかね……」
そう呟いて、おばあさんは畑のそばに腰をおろした。ミツバチの羽音が、だんだん遠くなってゆく。目の前の景色がゆらゆらと揺れて——そのまま、意識が遠のいた。
どこまでも広い畑の中に、おばあさんは立っていた。
花も野菜も虫も鳥も、みんなが声を持っていた。マリーゴールドとミツバチが話し込んでいる。カマキリが「わたしが畑を守ってるのよ」と誇らしそうに胸を張る。あちこちでざわざわとにぎやかだった。
そのとき、ふと気配がして振り返ると——入り口のそばに、あの子が立っていた。
「あなた、ここにいたの」
おばあさんが近づくと、ひまわりがゆっくりと口を開いた。夢の中では、言葉が出てきた。
「おばあさん。毎日来てくれてたね」
「もちろんよ。仲間から離れて、寂しくなかったかい?」
「寂しかった。でもおばあさんが毎朝来てくれた。だから、大丈夫だった」
「ねえ、おばあさん。倒れちゃったの?」
「そうみたいね。お恥ずかしい」
「怖かった。動かなくなっちゃったから」
「心配してくれたの。ありがとう。明日もおはようって言いに来るよ」
「約束?」
「約束」
そのとき、ほおに何かがあたった。ぽつ、ぽつ。雨かと思った。
目を開けると、夕暮れの空があった。
ほおがぬれている。すぐそこに、大きなひまわりの顔があった。花びらの先から、しずくが落ちていた。
「……泣いとったんかい」
おばあさんはゆっくりと体を起こして、その大きな花を両手でそっと包んだ。ひまわりは何も言わない。でも今のおばあさんには、その表情がわかった。怖かった、と言っている。ひとりで怖かった、と。
「そうかそうか。心配してくれたんやね。ありがとう」
西の空が橙色に染まって、畑全体が金色に光っていた。
「ひとりでも、こんなに大きく育って咲けたやんか。大したもんよ」
明日も元気でここに来ようと、おばあさんは思った。おはようって言いに。約束したから。
真っ赤な命
おばあさんが毎朝まず挨拶に行くのは、ひまわりだけではなかった。
畑の一番奥の畝に、今年もトマトが育っている。六月に黄色い小さな花が咲いたとき、おばあさんは手でそっと揺らしてやった。
「受粉、手伝ってあげるよ」
おばあさんの畑にはいつもミツバチが来る。マリーゴールドの橙色に引き寄せられたミツバチが、気づけばトマトの花にも立ち寄っていく。花から花へ、命から命へ。受粉から一週間ほどで、小さな緑の実が膨らみ始めた。
「あなた、ずいぶん大きくなったねえ」
七月になると、緑だった実が少しずつ色づいてきた。はじめはうっすらとオレンジ、それからだんだんと深い赤に変わっていく。
「赤くなればなるほど、体にええものが増えてるんよ。急がんでええ、じっくり熟んでおくれ」
そのトマトに目をつけたのが、カメムシだった。しかしそこへ、葉陰からカマキリがすっと現れた。三角形の頭をぐるりと回し、じっとカメムシを見る。それだけで、カメムシは逃げていった。
「ありがとうね、カマキリさん」
カマキリは鎌をゆっくり持ち上げた。どういたしまして、と言っているようだった。
八月のある朝、おばあさんはトマトの前で足を止めた。真っ赤に熟れた実が、朝の光を受けてつやつやと光っている。
「よし。今日がちょうどええ日やね」
おばあさんはそっと実をつかんで、ひねるようにして摘み取った。手のひらにずしりとした重さが伝わってくる。
「皮をむかんと食べるのよ。種のまわりのゼリーも捨てたらもったいない」
誰に言うわけでもなく、でもどこかに聞かせるように。
台所でトマトを切っていると、うとうとしてきた。
夢の中で、トマトが話しかけてきた。切られながら、笑っていた。
「おばあさん、今日摘んでくれてよかった。ちょうどよかったよ」
「そう? あなたも感じてたの、今日が頃合いだって」
「うん。もうこれ以上赤くなれないくらい、赤くなった気がしてた。リコピンも、ぎっしり詰めたよ」
おばあさんは種が白いゼリーに包まれた断面を見た。
「この種、また土に戻してあげようか」
「うれしい。でも食べてもらってもうれしいんよ」
「どうして?」
「おばあさんの体の中で、わたしが生き続けるから」
おばあさんはしばらく黙っていた。それから、静かに笑った。
「そうやねえ。そういうことやねえ」
赤い色素「リコピン」は皮に多く、種のまわりのゼリーにはアミノ酸が豊富。皮ごと・ゼリーごと、一滴も捨てずに。油と一緒に加熱すると吸収率がさらに高まります。
その夜、おばあさんはトマトをオリーブオイルで炒めて、スープにした。皮も、種のまわりのゼリーも、何ひとつ捨てなかった。
「ごちそうさまでした」
おばあさんは小さく手を合わせた。命をいただくたびに、そうする。それがこの畑を続けてきた、おばあさんのやり方だった。
つづく
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