旅する野菜|トマト⑥ 北イタリア・ミラノ ― トマトが広げた、食の選択

VIAGGIO DEL POMODORO

北イタリア・ミラノ

ジェノヴァ、トリノを経て、トマトの旅はミラノへ。アルプスの南に広がる平野では、米や乳製品を生かした料理が育まれてきました。新大陸から来たトマトは、この土地の食卓にどのように迎えられたのでしょうか。

ミラノを中心に、トリノ、ジェノヴァ、パルマなどを示した北イタリアの地図
ミラノと周辺都市。右の小地図は、前回訪れたナポリとの位置関係。

アルプスの麓、ミラノへ

イタリア北部、ロンバルディア州の中心都市ミラノ。アルプスの南に広がる平野と周辺の農村が、街の食文化を支えてきました。

ミラノのドゥオーモ広場から見たミラノ大聖堂の正面
ミラノの中心、ドゥオーモ広場にそびえるミラノ大聖堂。

アルプス山脈の南に広がるポー川流域は、肥沃な平野に恵まれた土地です。夏は蒸し暑く、冬は冷え込み、霧が立ちこめる日もあります。周辺では古くから稲作や酪農が盛んで、米や乳製品がこの地方の食文化を形づくってきました。

南イタリアでオリーブオイルが広く使われるのに対し、ミラノの伝統料理にはバターやラルド(豚脂)がよく登場します。

サフランで黄金色に炊き上げたリゾット・アッラ・ミラネーゼ。骨付きの仔牛のすね肉をじっくり煮込んだ郷土料理、オッソブーコ。そして、バターで香ばしく焼き上げるミラノ風カツレツ。

トマトを使わなくても、この土地には豊かな料理がありました。

黄金色のリゾット
サフランの黄金色が美しいミラノ風リゾット。
オッソブーコとリゾット
オッソブーコとリゾットの組み合わせ。
ミラノ風カツレツ、コトレッタ・アッラ・ミラネーゼ
ミラノ風カツレツ(コトレッタ・アッラ・ミラネーゼ)。骨付きの仔牛肉に衣をつけ、バターで香ばしく焼く伝統料理。

一方、1859年に出版されたミラノの料理書には、仔牛のカツレツをトマトソースで仕上げるレシピも登場します。少なくとも19世紀半ばには、トマトを使わない伝統的な調理法と、トマトソースを合わせる調理法の両方が見られました。

トマトソースをかけたカツレツ
トマトソースを合わせたカツレツ。19世紀の料理書にも、カツレツとトマトソースを組み合わせた調理法が記録されている。

赤い実は、どう迎えられたのか

16世紀、新大陸からヨーロッパへトマトが伝わりました。当時の人々にとって、トマトは見慣れない植物でした。ナス科には有毒な植物もあり、食べることを警戒する人々もいたと考えられています。

一方、16世紀のイタリアでは、植物学者マッティオーリがトマトを油などで調理して食べることに言及しています。すべての人がトマトを毒だと思っていたわけではありません。

それでも、新しい食材が日々の食卓に定着するには時間がかかりました。すでに米や乳製品、季節の野菜を生かした料理文化を持っていた北イタリアでは、トマトも既存の料理に少しずつ取り入れられていったのでしょう。

19世紀、ミラノの市場

1852年のミラノのヴェルツィエーレ市場を描いた絵画
アンジェロ・インガンニ《ヴェルツィエーレ市場》1852年。絵の中にトマトが描かれていると確認されたものではありません。

1852年、画家アンジェロ・インガンニが描いたミラノの青果市場です。広場には荷車が行き交い、野菜を売る人、買い物をする人たちの姿が見えます。

この絵が描かれたころ、イタリアはまだ統一されておらず、ミラノはオーストリア帝国の支配下にありました。市場には周辺の農村から農産物が運ばれ、街の人々の食生活を支えていました。

ミネストローネに加わった新しい味

ミラノの家庭料理の一つに、ミネストローネがあります。米や豆、キャベツ、セロリ、ニンジンなど、身近な野菜をじっくり煮込んだスープです。

ミネストローネは、身近な農産物を使って作る料理。季節や家庭によって材料が変わるのも自然なことでした。現在のミラノ風ミネストローネには、トマトを少量加えるレシピもあります。

豆や野菜が入ったミネストローネ
野菜たっぷりのミネストローネ。写真はミラノ固有のレシピと確認されたものではありません。

トマトが主役というわけではありません。それでも、昔から親しまれてきた野菜のスープに、新大陸からやってきた食材が加わっています。

人々は、なぜトマトを受け入れたのか

新しい食材が食卓に定着するには、食べる人がその味を気に入り、使い方を覚えていく必要があります。トマトには酸味とうま味があり、肉や野菜と煮込むと、料理に新しい風味を加えることができます。

しかし、トマトが広く普及した背景には、料理のおいしさだけでは説明できない、もう一つの理由がありました。農業と商業の変化です。

農家が見つけた、新しい可能性

19世紀後半、ミラノから南東に位置するパルマ周辺では、トマトの栽培と加工が発展していきます。農家にとって、新しい収入源となる作物を見つけることは重要な課題でした。

パルマの農業家カルロ・ロニョーニは、トマトの栽培方法を研究し、1874年には保存加工に取り組む農業者の組織を設立しました。さらに19世紀末にかけて、海外からの安価な穀物の流入などを背景に農業経営が変化し、トマト栽培が広がっていきます。

しかし、熟したトマトは傷みやすく、収穫できる季節も限られています。せっかく育てても、売れなければ農家の収入にはなりません。そこで重要になったのが保存加工の技術でした。

夏の収穫を、冬の食卓へ

人々は昔から、収穫した野菜を乾燥させたり、塩漬けにしたりして、食べ物の少ない季節に備えてきました。トマトも煮詰めて保存すれば、収穫期を過ぎても料理に使うことができます。

夏の畑で熟したトマトを、冬の食卓でも味わえる。今では珍しくないことですが、季節に合わせて暮らしていた人々にとって、それは大きな変化でした。

パルマ周辺では、トマトを長時間煮詰め、さらに天日で乾燥させて黒っぽい塊にした「コンセルヴァ・ネーラ」という保存食も作られていました。缶詰が一般化する以前の、人々の工夫を伝える食品です。

家庭での保存は、収穫した恵みを無駄にせず、次の季節まで大切に食べるための知恵です。一方、保存加工が商業的な規模に発展すると、トマトの役割はさらに変わります。

農家が育て、加工業者が保存食品にし、商人が別の街へ運ぶ。収穫した土地だけでなく、遠く離れた家庭の台所でも使えるようになったのです。

1938年のトマト濃縮缶の資料写真
1938年のトマト濃縮缶。パルマのトマト博物館所蔵の資料。

保存加工は、傷みやすいトマトに新しい商品価値を与えました。農家にとっては収入につながり、加工業者や商人にとっては新しい産業となり、家庭では季節を問わずトマトを料理に使いやすくなりました。

時間と国境を越えて

保存加工の技術は、トマトを遠くの国へ届けることも可能にしました。

今では日本にいながら、イタリア産の完熟トマトを使った缶詰を一年中手に入れることができます。生のトマトは品種や熟し具合、季節によって味や水分量が変わります。一方、加工用トマトの缶詰は、原料の選別や加工工程によって品質を一定の範囲に保つことができます。

私たちが季節を問わず、安定した味のトマトソースを作れるのも、長い年月をかけて培われてきた農業と加工技術のおかげです。

かつては収穫した土地で、限られた季節にしか味わえなかったトマト。その恵みは、保存する知恵によって、時間と国境を越えるようになりました。

そして、ミラノの味になっていく

トマトが広まったからといって、ミラノの料理がすべて赤くなったわけではありません。サフランの黄金色が美しいリゾットも、バターで焼き上げるカツレツも、昔ながらの味を受け継いでいます。

一方、オッソブーコにはトマトを加えるレシピもあり、ミネストローネにもトマトが使われるようになりました。新しい食材を取り入れながら、土地の味を守り続ける。

赤みを帯びたソースで仕上げたオッソブーコ
オッソブーコの一例。ソースが赤みを帯びているが、写真だけではトマトの使用は確認できない。

遠いアンデスから海を渡ったトマトは、ナポリではソースやピッツァに、北イタリアでは野菜のスープや煮込み料理に使われるようになりました。同じトマトでも、土地が変われば料理も変わります。そして、その変化の背景には、いつも人々の暮らしがありました。

地図:Natural Earth の公開地理データを基に作成。写真:Wikimedia Commonsより(各写真の撮影者名・ライセンス・出典URLは公開時に個別に記載してください)。

山口かをる(畑料理研究家)
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