日本でトマト味のスパゲッティといえば、「ナポリタン」。
「ナポリタン」は、日本生まれだということは知っていました。
でも、なぜ「ナポリ」なんだろう。
そもそもイタリアのナポリと、トマトのパスタには、どんな関係があるのでしょう。
そんなことが気になって、ナポリの古い料理書を探ってみました。
ナポリ。
強い日差しが、建物の壁を白く照らし、
ときおりふく風に、かすかに潮の香りを感じます。
細い路地に入っていくと、どこからか、にんにくをオリーブオイルで温める香りがしてきました。
少し先には、海。
鮮やかなブルーの日よけの店の前には小さなテーブルが並び、美味しそうな料理を運ぶ姿が見えます。
にぎやかな人の話し声や笑い声、
グリルした魚介類とトマトソースの香りに、ふと、足が止まりました。

1692年、トマトはまだ「ソース」だった
前回の旅でたどり着いたのは、1692年のナポリでした。
アントニオ・ラティーニの料理書『Lo scalco alla moderna』には、トマトを使ったソースが記録されています。
熟したトマトを火であぶり、皮をむいて細かく刻む。
そこへ玉ねぎ、少量のハーブ、唐辛子、塩、油、酢を加える。
このソースはまだ、パスタのためのものではありません。
肉などに添えるソースのひとつでした。
南米から海を渡ってきたトマトは、このころようやく、ヨーロッパの台所で料理の材料になり始めていました。
それから、およそ150年。
ここナポリで、トマトとパスタの関係がはっきりと見えてきます。

1839年、トマトとパスタ
一冊の料理書があります。
イッポリト・カヴァルカンティの『Cucina teorico-pratica』。
1839年に出版された第2版には、ナポリ方言で書かれた家庭料理の章が加えられています。
そこに登場するのが、
「Viermicielli co le pommadore」
トマトのヴェルミチェッリ。
トマトを煮崩し、裏ごしして、さらに煮詰める。
そこへ脂を加えます。
ヴェルミチェッリ(パスタ)は少し固めに茹で、水気をよく切ってトマトの中へ。
塩と胡椒を加え、火にかけながら混ぜて仕上げます。
いま私たちが食べている「パスタ・アル・ポモドーロ」に、ぐっと近づきました。
pomodoro(ポモドーロ)はイタリア語で「トマト」。
「ポモドーロ」は、特別な料理名ではなく、トマトという意味。ご存知でしたか?
実は、わたしは料理名だと思っていました。
「パスタ・アル・ポモドーロ」なら、「トマトのパスタ」です。
そして、この本で、もうひとつ、驚くような料理に出会いました。
パスタを、茹でない?
「Timpano di vermicelli con pomidoro cotti crudi」。
使うのは、生のトマトと乾燥したヴェルミチェッリ(パスタ)です。
厚手の鍋に油脂を塗り、トマトを並べる。
その上に、鍋の幅に合わせて折った乾燥パスタを並べます。
またトマト。
またパスタ。
パスタの向きを変えながら重ね、最後はトマトで覆います。
油を使う場合には、アンチョビを間に入れる方法も書かれています。
ここで、不思議なことに気づきます。
パスタを茹でる水がありません。
では、乾燥したパスタは何を吸って、やわらかくなるのでしょう。
加える水は書かれていません。
加熱すれば、生のトマトから水分が出てきます。
乾いたパスタは、その水分を吸いながら火が通っていったと考えられます。
普通に茹でたパスタなら、麺が吸うのは主に茹で湯です。
でも、この料理では違います。
麺そのものに、トマトの味が入っていく。
オリーブオイルを使い、アンチョビを加えれば、その塩気とうま味も重なります。
1839年の人たちは、ずいぶんおいしいことを考えていました。
現代の「茹でずにソースの中で仕上げるパスタ」(ワンパンパスタ)を思わせます。
1839年のナポリに、乾燥したパスタにトマトの水分を吸わせて調理する発想が、すでに記録されていたのには驚きです。
1839年8月30日の食卓
カヴァルカンティの本は、料理の作り方だけでなく、宴席や夕食のテーブルの整え方まで扱っています。
また表紙には、一年間、毎日4皿の献立を収録していることも明記されています。
その献立のひとつ、1839年8月30日。
そこには、先ほどのトマトと乾燥パスタのティンパーノを含む4皿が並びます。
魚を使った手の込んだ型料理。
卵に香草や酢、スパイスなどを合わせた料理。
そして、揚げ菓子。

これは、当時のナポリの人々が毎日こうした料理を食べていた、というわけではありません。
本を開いていくと、大きな肉の塊、魚、トリュフ、詰め物、型料理など、かなり手の込んだ料理も数多く登場します。
台所についても、複数の炉、魚用の炉、大理石の作業台、オーブンなどを備えることが想定されています。
いまの感覚なら、毎日の家庭のおかずというより、料理人が提案する「おもてなしの献立」に近いのかもしれません。
その華やかな料理書の中に、生のトマトと乾燥パスタを重ねて火にかける、こんな合理的な一皿が残っています。


『Cucina teorico-pratica』第2版(1839年)より
「Timpano di vermicelli con pomidoro cotti crudi」
Ippolito Cavalcanti / Public Domain
1839年のレシピを、再現したい
ここまで読んだら、やはり作ってみたくなりました。
使うのは、
よく熟したトマト、
乾燥パスタ、
オリーブオイル、
塩、胡椒。
そして、アンチョビ。
できるだけ原書に書かれた組み合わせを残して、現代の台所で作ってみようと思いました。
ところが、困ったことがひとつ。
今年は、なかなか「これで作りたい」と思える完熟トマトに出会えません。
天候の影響もあって、値段も高く、食べてみても、太陽の下でしっかり熟したトマトらしい濃さがもうひとつ。
この料理には、加える水が書かれていません。
主役になるのは、生のトマトそのものです。
ならば、せっかく作るのだから、しっかり熟した、おいしいトマトで作りたい。
残念ですが、今は無理に作らないことにしました。
おいしい完熟トマトが手に入ったら、1839年のレシピを実際に作ってみます。
そう決めたところで、ふと気になりました。
いまなら、一年中トマトを買うことができます。
では、1839年のナポリでは、トマトが採れない季節はどうしていたのでしょう。
調べてみると、その答えも、カヴァルカンティの料理書の中に残されていました。
続きは、次回。
参考資料・出典
・Antonio Latini, Lo scalco alla moderna, Napoli, 1692.
Museo della Cucina「La prima volta di un sugo al pomodoro」
・Ippolito Cavalcanti, Cucina teorico-pratica, Seconda edizione, Napoli, 1839.
Wikisource(原典全文・画像)
「Viermicielli co le pommadore」
「Timpano di vermicelli con pomidoro cotti crudi」
および1839年8月30日の献立を参照。
資料調査について
「旅する野菜」では、海外の文献や古い料理書を調べる際、資料探索や外国語の読解・整理に生成AIの力も借りています。できる限り原典にあたり、確認できた資料をもとに記事を構成しています。