前回のあらすじ
1839年、ナポリの料理書で出会った、トマトとパスタの料理。
生のトマトと乾燥パスタを重ね、トマトの水分を吸わせながら火を通すという、思いがけないレシピでした。
実際に作ってみたい。
ところが、肝心のおいしい完熟トマトが、なかなか手に入りません。
そこで、素朴な疑問が浮かびました。
1839年のナポリでは、トマトが採れない季節は、どうしていたのでしょう。
1839年のレシピがどんな味になったのか。
再現してみたいのにトマト手に入らない…
すると、そぼくな疑問が浮かびました。
1839年のナポリでは、トマトが採れない季節はいったいどうしていたのでしょう?
夏のトマトを、冬へ
答えは、意外にも同じ料理書の中にありました。
『Cucina teorico-pratica』には、
「イチゴとトマトを瓶に保存する方法」
という章があります。
カヴァルカンティは、丸く熟したトマトの皮をむき、四つに切って種やゼリー状の部分を取り除き、果肉を板の上に広げて少量の塩を振り、太陽に当てます。
翌日、それを瓶へ。
瓶をしっかり栓をして湯の中で加熱し、保存する方法が記されています。
夏に実ったトマトを、季節の外でも食べられるようにする。
1839年には、そんな知恵も同じ本の中に残されていました。
8月30日の献立に生のトマトをたっぷり使った料理が置かれていることも、少し違って見えてきます。
旬との関係をカヴァルカンティが説明しているわけではありません。
ただ、生のトマトを存分に使える季節の一皿だったのかもしれません。

もうひとつ、アンチョビ
そして、この料理にはもうひとつ、保存された食材が登場します。
アンチョビです。
原典に書かれているのは、塩漬けのアンチョビ。
カヴァルカンティの別の料理を見ると、塩漬けアンチョビを洗い、骨を取って使う例もあります。
魚が傷まないように塩で保存する。
それだけではありません。
魚と塩を時間をかけて熟成させると、そこには強いうま味をもった液体も生まれます。
ナポリと同じカンパニア州のチェターラには、アンチョビを塩で熟成させ、その液体を調味料として使う「コラトゥーラ・ディ・アリーチ」があります。
そう聞くと、ベトナムのヌクマム、タイのナンプラー、日本のいしるやしょっつるを思い出します。
魚と塩から生まれる液体の調味料は、遠く離れた土地にもあります。
調べ始めると、ナポリからずいぶん遠くまで行ってしまいそうです。
この話は、また別の記事で。
「旅する野菜|もうひとつの食の物語」へ。
今回は、現代のオイル漬けアンチョビを使うつもりです。
当時の塩蔵品とは違うので洗わず、量を控えめに。塩は味をみて加えます。
完熟トマトの甘みと酸味。
オリーブオイル。
ときどき感じるアンチョビの塩気とうま味。
どんな味になるのか。
いいトマトを待つことにします。
ナポリの午後
店を出るころには、昼の強い光が少しやわらいでいました。
市場には、形も大きさも違うトマトが並んでいます。
小さなもの。細長いもの。丸く、ずっしりとしたもの。
料理に合わせてトマトを選ぶ。
かつて海の向こうからやってきた植物は、もう珍しいものではありません。
日々の料理を支える食材になっています。
料理によって選ばれ、使い分けられる、日々の食材になっています。
南米から海を渡った植物が、ここまで土地の暮らしに入り込むには、長い時間がかかりました。
年月を経て、トマトの料理が根づいていったのは、レストランや料理書の中だけではありません。
マンマの味

イタリア人の知り合いが二人います。
ひとりは、ナポリに近い南イタリアの海辺の町の出身。お母さんはレストランを営んでいました。
もうひとりは、北イタリアの出身。
育った土地も、職業もまったく違う二人です。
それぞれに「マンマの味は?」と聞いたことがあります。
二人とも答えは、
トマトのパスタ。
もちろん、二人の答えをイタリア人すべての話にすることはできません。
それでも、私はこの偶然がずっと心に残っています。
鍋の中でトマトが煮えている。
にんにくとオリーブオイルの香り。
茹で上がったパスタは、ソースの中へ。もう一度、火にかけながら仕上げます。
皿に盛られ、食卓へ。
豪華な料理ではありません。
何度も食べた味は、その家の記憶になります。
遠い南米からやってきた植物が、
「マンマの味」
と呼ばれるところまで来た。
そこに、トマトがこの土地に根づいた時間が見える気がします。

暮れていくナポリ
日が落ちて、ひんやりした空気が漂い始めました。
ナポリの家々の窓に、明かりが灯っています。
海辺を背に、古い住宅の間の坂をのぼっていると、どこからか、トマトと野菜の煮込みの香りがしてきました。
遠い南米から旅してきたトマトは、
すっかり、この土地の、それぞれの家の味になりました。
明日は、この町を離れます。
列車は、北へ。
同じトマトでも、土地が変われば、また違う料理に出会います。
トマトの旅は、まだ続きます。
資料調査について
「旅する野菜」では、海外の文献や古い料理書を調べる際、資料探索や外国語の読解・整理に生成AIの力も借りています。できる限り原典にあたり、確認できた資料をもとに記事を構成しています。